往還 《塩売街道》
かつて、塩売街道 と呼ばれた往還があった、そうな。
【余戸から三津へ。余戸から松前へ。米はこの道を通って三津三本柳の舟場へ。そして、塩と魚はこれを通って余戸へ。魚は(また)この道を《出合渡し》を越えてくる松前の「おたたさん」から。
苗代に入れる砂も、堤の下刈りをした薪も、この幅一間たらずのかいどうが頼りだった。
よく手入れをした固い丈夫な道で、余土の経済の生命線のようなものであった。
全国に先駆けて行った耕地整理のため、余土のほとんどの道は昔のママのものは殆ど姿を消してしまったが、
この道は一部(善喜寺の南を通って中ノ孝へ)の道は姿を消したが、その他の道は現存している。】
(余戸検定資料をママ写す)
☆
松前は現在の伊予郡松前町。今も、鰹節、海産珍味で有名である。
三津は、松山北部の港町。三津浜港、高浜港があり海の玄関で旧い歴史の町である。
余戸はちょうど中間辺りになる。
地名「余戸」は、字の示すとおり「余った何戸」だそうである。
【50戸単位の里(郷・村)に、戸口に応じて口分田を配分した結果、《余った何戸》かに貸し与えた地を「餘戸の里」と呼び、後に余戸というようになった。
平安時代中期の辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に「久米郷 餘戸ノ郷(あまりべのさと)」の記載あり。】
『村始め 十戸に足りない餘戸の里』
注) 【】は、余土検定資料より。『』も同じ資料より「余土かるた」
☆
現在も、洗地川(せんぢがわ)に架かる「塩売橋」に、その名が刻まれている。
洗地川
塩売橋
塩売橋から洗地川下流方(西)
画像右手にこんもりち写る杜が「履脱天満宮」
塩売橋から南
現在の塩売街道
橋から少し南に行くと左手に松山市立さくら小学校